おおまち対談

聞き手:ライター 春木栄子 2021年7月

価格競争をしない。
楽しみながら自立の道を歩む

―― 「日本一のだがし売場」の知名度は今や全国区です。

秋山 ここ(瀬戸内市長船町)に移ってきたのが1995年、それまでは岡山市内で普通の菓子問屋を営んでいた。2011年に直売店を始めて、認知してもらえるようになったのは2017年頃かな。

―― 10年前には大変な時期があったそうですね。

安達 経営状態はそんなに良くなかったです。

秋山 会社を大きくするのはやめて、赤字が出ないぐらいで、みんなで楽しくやろうとしていたころね。

安達 価格競争の真っただ中にいて、売り上げが伸びるほど赤字も膨らんで経営が成り立たなくなっていました。

秋山 うちは今、売れ筋品はほとんど置いてない。変わった菓子屋(笑)。

―― 売れ筋の商品を扱わない理由を教えてください。

秋山 大規模店はそういう商品を安く売っても経営が成り立つけど、小さい店は安く売ったら赤字になる。お客さんは安いところに買いに行く。だから敢えて売れ筋を置かないし、価格勝負をしない。

安達 25年ほど前、この倉庫(現 日本一のだがし売場)を建てた時は、有名ブランドの菓子から何から全部そろえていましたね。

秋山 当時、業務提携していた会社からノウハウをもらって、中四国で随一の規模の菓子卸センターにするために倉庫を建てた。ところがその投資が仇となって、事業につまずいてしまった。

安達 20年ぐらいかけて少しずつ販売先や商品が変化して、会社も小さくなっていったというわけです。

経営危機に見舞われて
苦渋の決断

―― 会社を小さくするのは難しいと聞きます。

安達 難しいです。

秋山 一番やってはいかんリストラを2回したからね。1回目は売れ筋商品が全盛のころ。売上は上がるけど、赤字も膨らんで会社が潰れるところまでいった。それで価格競争になっていた商品をやめたら、今度は売上が落ちて経営が立ち行かなくなった。人員を3分の2に減らすしかなかった。

―― 大変な思いをされたのですね。

秋山 もう1回は、センターにするつもりで建てた大きな倉庫に絡んでいる。使い道を失っていた倉庫で委託事業をしていて、それでしばらくは何とかやっていた。ところがその契約も2010年で終了となって。その時はパートさんを中心に20人ぐらいが働いてくれていた。最後の食事会では「次に何か事業をする時は呼んでよ」「わかった」と涙ながらに約束して、ありがたいことに3人が復帰してくれている。

秋山社長

事業を縮小。
趣味で直売店を始める

秋山 事業の縮小をきっかけに、大好きな子どもを喜ばせることをしようと思った。僕の趣味で。

―― 今につながる方向転換ですね。

秋山 最初は、下の倉庫(日本一のだがし売場に隣接する建物)の一部を使って、過剰生産や賞味期限の近い商品などを安価で販売する「もったいない広場」を始めた。当初は社員全員に反対された。「そんなことやってもお客さんは来ませんよ」と。

安達 それまで年2回開催していたイベント「お菓子祭り」を常設にしたわけです。地元の方に人気のイベントで、折り込みチラシの効果もあって何千人もの来場がありました。

秋山 年2回だからにぎわうのであって、毎日ではそうはいかない。

安達 直売店を始めた頃は、まったく現在のようなイメージはなかったですね。

―― 現在のお店の形態も想定外だったのでしょうか。

秋山 全然、違う。日本一のだがし売場は自然にできあがった。

安達 事業を縮小した頃に、“将来こうなったらいいな”とみんなでイメージしたものを絵にしました。観光農園の中で野菜を売っていて、小さな駄菓子屋もあったり。

―― その絵に向けて、新たなスタートを切ったのですね。

 

秋山 そうともいえるけれど、日本一のだがし売場になる直接のきっかけは、2011年の東日本大震災。あの年の1月に直売店を始めた。そして3月11日に震災が起こった途端に、菓子メーカーさんや問屋さんなどから届くはずの菓子が全部、支援物資として被災地へ行くわけ。売る物がなくなり、当時両親が中央卸売市場で営んでいた菓子問屋から“だがし”を仕入れて売ったのが、日本一のだがし売場の始まり。

安達副社長

トラックに菓子を積み込み
日銭を稼ぐ日々

安達 2011年に常設で始めて1、2年は、来客ゼロの日もあったり。その頃は、社長自らがトラックに菓子を積み込んで、山中の寺の境内で売って来ることもありました。

秋山 ニュースで経済難民のいる地域のことを知ってね。人は出てきてくれるけど、田舎だからせいぜい5、6人。売り上げの3千円を持ち帰っても「ガソリン代も出ませんよ」と言われた(笑)。それから近所の会社のお昼休憩に訪ねてみたら1万円ほど買ってもらえたので、そういうところを探しては日銭を稼いでいた。

安達 何から何までほぼ一人でやっていましたね。

秋山 当面スタッフは一人だけでお金もかけずにやる、との約束だったから、最初の設備投資は5万円だけ。

安達 今もディスプレイにはお金をかけてないですけどね。もともとあった物を使いまわしています。

秋山 手作りしたり、廃材を活用したりで、新しく買った物は100円ショップの手提げのカゴぐらい。

―― 社員の皆さんは社長にストレートに意見されますね。

安達 (笑)。当時はだいぶ責められていました。やることなすこと全て失敗していたので、立場がないという感じでしょうか。

秋山 最近しか知らない人はみんな勘違いして「すごいですね」「事業に成功しましたね」と言うけどね。本当にたまたま、偶然で今に至るまでにかなりの紆余曲折があったわけ。

子どもの言葉に触発され
商品の種類が増加の一途をたどる

秋山 直売店(もったいない広場)に10円20円のだがしを並べていたら、子どもがいっぱい買いにきてくれるようになった。だけど日曜日はお客さんが多くてレジが大変だから、10円のだがしは倉庫の隅に隠していた。

安達 子どもたちはよく知っていて、隠しているのを見つけてレジへ持ってくるんです(笑)。

秋山 そうこうしているうちに子どもと僕との交流が始まった。近所のやんちゃ坊主が来て、「ここにはうまい棒が2種類しかない」「コンビニに行ったら3種類ある」とかいうもんだから。負けてなるものか!と2週間かけて16種類、全部そろえた。そしたら子どもたちがとても喜んでくれた。それからもリクエストを聞いては取り寄せる、を繰り返していって、日本一のだがし売場ができあがった。

経営陣
経営陣

商売する気はない。
子どもを喜ばせるために仕事をする

―― これからどのような展開になるのでしょう。

秋山 偉そうな言い方だけど、僕は商売をする気は全然なくて。子どもたちのため、製造メーカーさんのためになればとの思いで仕事をしている。もともと江戸時代の商人は、世のため人のためになる活動を行ってきた。これが「経世済民」であり「経済」の原点。それをみんな忘れている。儲けようと思わなくても、利益はちゃんと後からついてくる。

―― 子どもたちのためにどんな工夫を。

秋山 とにかく子どもを喜ばせるため、すべてを子ども中心に考えてきた。子どもの目線に合わせて陳列を低くして、商品ひとつひとつに値段シールを貼る。お小遣いの予算内でぴったり買い物ができるように、消費税込みで全部10円単位の価格にそろえている。35円とか43円では計算しにくいからね。

―― 予算ぴったりで買えたら、うれしいですね。

秋山 だから小学生がいっぱい来る。日曜なんて、あちらこちらで子どもが一生懸命、選んだ商品を手に計算している。

―― 日本一のだがし売場ならではの光景ですね。

秋山 子どもたちも楽しいし、面白いから親を連れてきてくれる。おじいちゃんおばあちゃんが大好きなお孫さんと一緒に、三世代で来てくれるケースも多い。

―― 三世代が多い理由は何でしょう。

安達 みんなで過ごせる時間・空間が何より楽しいのではないでしょうか。テーマパークみたいに、レジャー感覚ですね。ドライブを楽しんで、買い物をして、写真を撮って、思い出もつくれるレジャースポット的な。買い物だけの魅力ではないと思います。

だがしの全国組織を発足。
3月12日を「だがしの日」に

―― だがしの全国組織設立にも関わられました。

安達 2015年4月に、直売店の看板を「日本一のだがし売場」に付け替えて、そのタイミングで「DAGASHIで世界を笑顔にする会」が立ち上がりました。

秋山 これまでだがしには業界という概念がなく、組合的なものもなかった。何もないから、会をつくろうと思った。

―― だがしの文化はあります。

秋山 文化としてはあるけど、形がないところに全国組織ができて6年が経った。でもいまだに、だがしというだけで、偏見の目で見られることもある。

―― 「駄菓子」の「駄」の字が良くないのでしょうか。

秋山 そういう印象がなきにしもあらずなので、名称をローマ字表記にしている。さらに、会の活動をひろめるためのアドバイスをもらおうと、数人のメンバーで和歌山県の橘本(きつもと)神社を訪ねたわけ。

安達 菓子の神様・田道間守(たじまもり)公を祀る神社で、菓子業界ではよく知られています。戦前には音楽の教科書にものっていたそうです。

秋山 そこの宮司さんに経緯を伝えたら、田道間守公の命日である3月12日を「だがしの日」にしてはどうか?と提案いただいた。以来、だがしの日には全国の被災地の子どもたちを訪ねて、だがしで笑顔になってもらっている。今年は、菓子の神様を当社へお迎えしてお祀りすることができた。

―― そういういきさつで、日本一のだがし売場内に「だがし神社」が誕生し、経世済民を実行されているのですね。ますますのご活躍を期待しています。